ABOUT

1988年、北海道興部村出身。

公務員の父と専業主婦の母の元で、三人姉妹の次女として育つ。

自然観察が好きな両親の元、野鳥観察やキャンプ、山菜取り、きのこ狩り、カヌーで川下りなどアウトドアを楽しんで幼少期を過ごす。

父は開発局に勤めていて、道内を転々としていた。私が小学校に上がる年に家を建て、父は単身赴任となった。それまでも、両親の夫婦仲は良いとは言えず、お互いを攻め合うように言い合いになることもしばしばあった。母はワンオペで、大変だったが、手先が器用でトールペイントやパッチワークなど趣味を充実させていた。野鳥やモモンガの研究にも熱心で、ビデオを撮りながら観察して記録していた。私たち娘のビデオもたくさんある。姉の反抗期が激しかったものあって、「無難に生きよう。」「自分は公務員になる。」そう漠然と思っていた。中学から始めたバレーボール。打ち込んで実力をつけて仲間との日々を楽しんでいた。高校では、当時バレーボールでは道内No.1の高校に入り、練習に励んだ。大学でもバレー部に所属し、キャプテンを長く勤めた。中学の時も高校の時も大学の時も父はカメラを持って、練習試合も大会も見に来てくれた。部活で忙しい毎日だったが、勉強もしっかりしていた。中学ではBランク、高校ではオール5、教育大学には推薦で進学した。

大学では理科グループに所属し、実験をしたり、植物観察、キノコ採取、フナ・イカ・ネズミの解剖、臨海実習などをした。専攻は生物で、ショウジョウバエの研究をした。隣の隣の研究室には後の夫となる和成がいた。お揃いのマグカップを渡され、それぞれの研究室で使っていたのが恥ずかしかった。(笑)ショウジョウバエは羽化して4時間経つと交尾して繁殖してしまう。交雑の実験をする際は生後4時間以内のバージンを取り溜めて、オスとメスを分けたり、ハエの餌を作って、詰め替えたりやることは多かった。顕微鏡を覗きながらの解剖もたくさんやった。虫網を持って森に入って、網を振り回して頭からかぶり、吸虫管で特定のハエを捕まえたりしていた。

子どもが好きだったし、給食がたべれるし先生を目指して、ストレートで採用された。初任校の先輩たちはとても私を可愛がってくれて、飲み会に誘ってくれ、カラオケで盛り上がり、真面目な話もたくさん、悪戯もたくさんやった。キャンプに若手で行ったり、マラソン大会に出たり、焼き肉をしたり、とてもいい職場だった。でも、仕事は大変だった。初担任したクラスは、高学年で落ち着きのない子がいてそれはそれは大変だった。無断欠勤もした。でも保護者や同僚に助けられて、先生としての技術を身につけて勤めていた。先生になって3年目に結婚、4年目には妊娠、家を建てて2年間休業した。娘はとても可愛かったけど、孤独を覚えた。思ってたのと違った。子どもとはどういうものか知らなかった。結婚もして子どももいて、家もあるのに満たされない日々。子育てサロンに行っても当たり障りのない会話。復帰した職場では、あまり会話がない。効率重視で保護者も余裕がない。娘が2歳でアトピーになった。育休復帰してすぐに、痒くて眠れなくなった。自力で勉強して本を読んで100日でアトピーを治した。それと同時に世の中の構図を知ってしまった。その構図を維持するための公教育がある。食の安全、医療システム、経済システム、教育システム、全てが狂っていた。人々が幸せになるためのシステムではなく、支配者層に有利な構造を作って、人々が社畜となって働く。自分ももれなく社畜だと知った時、愕然とした。抜け出さなくては、子どもたちの未来はない。自給自足しなくては。それか就農でもしようか。たくさんの農家さんにお話を聞きに回った。面白いと思ったワークショップや畑仕事にも参加するようになった。仲間がいることを知った。マオイ学びの里小学校の学校説明会で、トモエ幼稚園のことを知った。トモエ幼稚園は衝撃的だった。みんな幸せそうだった。私もそうなりたいと思った。子どもも大人も笑顔でゆったりと生活している通いの村。育休復帰して2年たった日、私は退職した。すぐに娘と毎日トモエ幼稚園に通った。とても楽しくて、娘が愛おしくて、友達家族も愛おしくて、支え合い、心の拠り所となっていった。自分とは何か。人間とは何か。子どもとは何か。向き合うことができた。いよいよあと1年で娘が小学生、自宅で産んだ長男が生後8ヶ月の時、決意した。和成が育休を1年間申請してくれたことにも勇気をもらい、稼ぐことにした。自分が稼げば、自分の魅力が磨かれる。先生をしていた和成を辞めさせて自由にさせてあげることができる。どうすれば稼げるかトモエ仲間でもある宍戸慈ちゃんに相談した。私のエネルギーを読み取って、アドバイスしてくれて、あさみ塾を立ち上げることに。すぐに、コンサルをお願いして、発信を始め、モニター授業を始めた。塾生が減ることがあったし、退屈させてしまう授業をしてしまったことも。それでも、知ることは楽しい。楽しく授業することができると信じていて、何度も何度も反省しつつトライし続けた。徐々に塾生が増えてゆき、私の収入で生活できるようになるまで稼げるようになった。安定にた収益があり、家族との時間を十分に確保できて、自分の魅力を磨き続けることができ、とても幸せだった。和成も仕事を辞めて新しいことに踏み出すことができた。でも、これ以上塾生を増やしたら忙しくなって家族との時間がなくなるから嫌だった。でも、繁栄させる価値がある。私のように、新しい生き方を求める人がたくさんいる。仲間を増やす活動も始めることにした。ライフコーチ麻美として、塾運営者の育成、自由な生き方を選択した人が継続して稼げるようにアシストする仕事を始めた。私がいかに自由を手に入れてきたかをお伝えします。お金に振り回される人生ではなくて、お金を利用して自分のエネルギーを世の中に大切な人に循環させて喜んでもらうことができる大人たちに。お金・パートナー・親と向き合って、自分らしく、自由に生きることを目指します。